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「オペラ座の怪人」とオペラ「ドン・ジョヴァンニ」 [オペラ座の怪人]

 前々回(1月20日)の日記では、ミュージカル「エリザベート」終盤とオペラ「ドン・ジョヴァンニ」終盤の関係に関して私見を述べたが、今日は、これに因んで、ミュージカル「オペラ座の怪人」終盤とオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の関係について話をしたい。

 ミュージカル「オペラ座の怪人」には三つの劇中劇がある。そのうち、最後の劇中劇である「ドンファンの勝利」は、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」をモデルとしたものだといわれている。(ドン・ジョヴァンニの英語での読みはドンファンであることからも明白である。)

 オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の終盤では、放蕩者の青年貴族の手をキリスト教徒の檻である騎士長の石像が引いて、改悛を強く迫り、説得が無駄だと分かるや地獄へと引きずり落とすのだが、「ドンファンの勝利」では、貴族ドンファンが、乙女アミンタの手を引く。即ち、手を引かれる立場だった者が手を引く立場になるという正反対の構成が採られている。

 「ドンファンの勝利」は、怪人自らが台本も作曲も手掛けたオペラということになっているが、このようなあべこべな構成を用いた真意はどこにあるのだろうか。少し、怪人の意図を推測してみたい。

 ドン・ジョヴァンニは生来の放蕩者で反社会的存在として、成敗される形で人生を終えるのだが、ドンファンこと怪人は、自らの責めに帰さない生まれつきの容貌をもって社会からつまはじきにされ、反社会的な立場に追い込まれたのだ。

 その怪人が成敗する立場となってアミンタ役のクリスティーヌの手を引くということの意味するものは、単にラウル子爵を選ぼうとしている移り気なクリスティーヌに改悛を求めることであったり、報復を加えることというような表面的で生半可なものではないと考えて良い。

 おそらくは、一般に社会的に良しとされている要素(美しく若い)を兼ね備えているクリスティーヌ(乙女)を社会の象徴たる観客の眼前で地獄(怪人の隠れ家:自らの心の闇)に引きずり込むことをもって、生まれつき醜いというだけの罪もない自分をつまはじきにし続けた歪んだ社会全体への最後にして最大の報復を果たそうとしているのではないかと感じる。

 即ち、怪人にとっては、正当な理由もなく自らをつまはじきにした社会は正義ではありえない。従って、反社会的なドンファンこそが、勝利すべきだと考えたに相違ない。

 「オペラ座の怪人」は、一見すると最後に悪が滅びる勧善懲悪物語のようにも見えなくはないのだが、実のところは我々が善と思いがちなものも、実は善ではないことに気付かされる。知れば知るほどさらに知りたくなるミュージカルである。

 このように考察を重ねていくと、「オペラ座の怪人」が極めて奥の深いメッセージ性に富んだミュージカルであることがお分かり頂けると思う。しかも、このミュージカルには、このような論点が数多く隠されている。これからも、折りに触れて少しずつ論考してゆきたい。

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