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(9月13日)東宝ミュージカル「ミス・サイゴン」大阪公演マチネ観劇 [ミス・サイゴン]

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 9月13日は、フェスティバルホールで公演中の東宝ミュージカル「ミス・サイゴン」大阪公演マチネを観劇してきた。

 座席は1階S席12列目(実際にはオケピットがあるため7列目)センターブロック下手端であった。舞台全体が無理なく見渡せる良席であった。この日は3階席下手に学生の団体がいたらしく、カーテンコールでは3階席下手側から熱狂的な拍手と声援があがり、キャストも3階席の声援にこたえていた。

 主なキャストは、
エンジニア:駒田 一さん
キム:知念 里奈さん
クリス:上野 哲也さん
ジョン:上原 理生さん
エレン:木村 花代さん
トゥイ:神田 恭兵さん
ジジ:池谷 祐子さん
であった。

 今回、この演目は初見であり、事前に特に予習もすることなく観劇した。観劇後まず感じた率直な感想としては、この作品がオペラ「蝶々夫人」のオマージュであるということである。
終盤が近づくにつれて、これはもしや「蝶々夫人」なのではないかという疑念が芽生え、やがて、確信したときには、一瞬現実に引き戻されたような醒めた気分になった。しかし、わざわざオマージュという手法を用いたのは、作者が観客に訴えたい一つのメッセージなのだということに思いが至ったとき、何とも切ない気持ちになった。

 開国間もない時代のわが国の長崎とベトナム戦争当時のベトナム、時代も背景も異なれど、同様の悲劇が起こったということ、果たして本作品や「蝶々夫人」のように、母親が自殺したかは別としても、数多のアメリカ人とアジア諸国民との混血児(アメラジアン)が生まれ、父親も知らず貧困にあえいだり、偏見の目に晒されたりするケースが後を絶たなかったのは、厳然たる事実であろう。

 そして、本作品の作者は敢えてオマージュという手法を用いることで繰り返される愚かな歴史を一層鮮明に表しているように感じられた。

 なお、傍論ながら、本作品における日本人の描写は大変興味深い。「蝶々夫人」では、いわば被害者の立場にあった日本人が、本作品では、加害者に近い立場で描かれていた。バンコクの売春街の場面で女を漁るのは、皆日本人観光客なのだ。この作品は、世界各国で公演されているが、全ての国のバージョンで、この場面は日本人という設定になっているそうだ。この作品の舞台となった時代は、高度成長期こそ終わったが、オイルショックを経て、バブル期への道をひた走った時代であり、日本という国には時の勢いがあった。結局のところ、本作品は蝶々夫人のオマージュではあるが、日本人は、完全なる被害者ではあり得なかった。「蝶々夫人」の国の民とて例外ではないということを作者は敢えて描写することによって、本作品の問題提起が単にアメリカ人のみの問題としてではなく、より普遍的な人類の歴史上の問題として表そうとしているように感じた。

 また、もう一つ特筆すべきこととして、この作品では全幕を通じて、ベトナム人の抱くアメリカへの憧れが色濃く描かれている。楽曲「アメリカンドリーム」に代表されるように、アメリカに渡れさえすれば、幸せに暮らせ、金持ちにもなれ、容姿だって美しくなれるといった狂信的ともいえる誤解に基づいたアメリカ観がこの作品では敢えて貫かれる。それ故に、終幕間際に主人公のキムが、最愛の息子との今生の別れに、ミッキーマウスのトレーナーを着せてやる場面を見て、恐らく最底辺の暮らしの中で彼女が辛うじて買って来たであろうそのトレーナーに、救うべきものを救えず、幸せにもしないアメリカンドリームの真実の姿を見た思いがした。狂信的なアメリカ観と現実の落差が、アメリカンドリームの軽薄さと無力さをより一層際立たせ、それがただ哀しかった。
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